凄い疲れるしなんのメリットも無いけど美しさを感じたくて俺は山に登る

 

最初に断っておくと、俺は別に誰かの生き方や考え方を否定する気はなくて、単に誰かの意見に対する自分の意見を述べているに過ぎない。
人それぞれ考え方があるし、それぞれの考え方をひとつのものさしで計ることに合理的理由が無いことを知っている。俺は単にこういった考え方には多様性があるし、多様性があること自体がこういったことに対して唯一普遍的な価値を持つのだということを示したくて自分の意見を明らかにしている。つまり俺の記事に価値があるのではなく、俺が記事を書くこと自体に意義があると考えている。
 
 
俺から見るとはあちゅうさんとイケダハヤトさんはよく似た性質を持っている。両者とも非常に合理的かつ保守的なタイプだ。例えて言うなら石橋を渡らないで済む理由を一生懸命になって考える、そんなタイプだと俺は見ている。イケダハヤトさんが書くブログのタイトルは「まだ東京で消耗してるの?」という非常に攻撃的なもので、このタイトル自体が彼のポリシー全てを表しているとは思わないし、大部分は耳目を引くために誇張された文言だとも思う。けれどこのタイトルの本質にあるのは経験の否定だと俺は感じている。
俺は人間とは、極端に言えば自己の実体に対する受容体に過ぎないと考えている。端的に言えば自分自身の陰茎だ。そういう考えの人間からすれば経験とは自分を構成する物理的要素以外全てだと言える。だからこそ経験という部分にフォーカスしているのだけど、彼のブログのタイトルには経験の否定が感じられる。つまり、何かを経験すれば疲弊すると、消耗すると述べているのだ。それは100%事実だ。まるっきり同意できる。でも俺達はそうすることでしか経験を得ることが出来ない。でも経験を得なければ自分というものが変化することはない。ドラクエで最初の街から一歩も出ないような状況だ。ドラクエの世界には寿命という概念はないけれど、俺達にはある。だから最初の街から一歩も出なければレベルは1のままだ。
レベル論で言えばそもそもとして1のままで良いというような意見があるかもしれない。それもまた正だと思う。こういう認知をしていくとキリがないので原則として俺は誰かの意見を否定する意味で対論を述べているわけではないと踏まえて以降を読んでいただきたい。
閑話休題。
 
俺は体験主義者だ。興味を持てば何でも体験したいと思うタイプの人間だ。そして今俺は国にとらわれないではたらくということに強い興味を覚えて実験的に様々な国や地域をうろついてはたらいている。ただ、俺自身の能力が足りていないこともあってそんなに広い範囲に及んでいるわけじゃない。ちなみに今は長期休暇がてらフィリピンの首都マニラがあるルソン島の南西に位置するミンドロ島にあるプエルトガレラというちょっとしたリゾート地にいる。リゾート地と言っても日本人が想像するような綺麗で清潔で全てが揃っているようなサービス精神旺盛なリゾートじゃない。よく言って無人島に掘っ立て小屋を建てたようなもんだ。その掘っ立て小屋の脇に生えてるインディアンマンゴーの樹の下でローカルビールを飲みながらこの記事を書いている。
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話を戻そう。俺は体験主義者であるから、経験というものは金を払ってでも得たい。例えその経験から得られる換金可能なものが経験を得るに支払った金銭より低くてもだ。そういう点で俺はイケダハヤトさんとはあちゅさんという2人とは対局に位置する人間であると思っている。彼らは必ずその経験から得られるメリットによって経験の良し悪しを測っている。これは乱暴に言ってしまえば「数学の勉強が人生のなんの役に立つんですか」と教師に問う生徒と本質的に同じだ。経験によって広がる自らの視野というものを信じていない。俺はここに対して非常に残念な気持ちを持っている。彼らは二人共とても大きな影響力を持っていると思う。それは今の若い人の多くが共感しているからで、言い換えれば彼らの考えがマジョリティなわけだ。彼らのような代弁者が台頭する今の日本は全てを合理的に判断しなければならない程に老いてしまっているのだと俺は感じている。死ぬだけの人間がどこに希望を見いだせるだろう。きっと死ぬ日をどれだけ先に伸ばせるかというところくらいじゃないだろうか。だからイケダハヤトさんは消耗することを否定的に扱ってしまう。あたかも人間の目的は一日でも長く生きることでも言うかのようだ。実際は日本社会独特の軋轢だとか、厳しすぎる社会の目に対する疲弊を揶揄した言葉なのだろうけど、消耗という言葉でくくってしまうとどうしても長生きすることそのものに意義を見出してしまっているかのような印象を俺は感じてしまう。
 
はあちゅうさんに関しても同様だ。結婚がもつ合理的な理由、メリット・デメリット、そういうものではかれば今の日本社会における結婚なんてデメリットがほとんどだ。ベビーカーを持って電車に乗っただけで舌打ちされる社会で子供を持つことにどれだけ大きな決断を必要とするか俺には計り知れない。でもそういうところにだけ目を向けることが全てだとは思えない。そういう点に対して俺と非常に近い視点を持った記事が切り込み隊長のそれだ。
 
実体験を元にしているだけに俺なんかよりも万倍言葉に重みがある。だから俺は俺の彼女の話をしようと思う。
俺の彼女は現在20代後半。既に子供が二人いる。両方共父親は違うし結婚もしていない。彼女自身は4人兄弟の長女で、早くに父親をなくして妹や弟の学費を賄うために15歳から働いている。だから高校も卒業していない。20歳頃日本に半年出稼ぎに行き、フィリピンに家を建てている。上の子はその時に日本人との間に出来た子だ。日本人は当時で50歳過ぎ、既に家庭のある身だからもちろん認知はしたくないし、なんだったら堕ろさせたい。出稼ぎも所謂ジャパゆきさんなわけで、コーディネーターも堕ろさせたい。妊婦じゃ人気が出ないからだ。それでも彼女は必死になって子供を守り、半年間を過ぎてフィリピンに戻り一人で子供を産んでいる。
 
俺はその話を聞いて純粋に疑問に思った、なんでそこまでして子供を産んだのか。日本じゃシングルマザーは言葉は悪いけど賤民扱いだ。影に隠れて生きることを余儀なくされているのが一般的だと俺は認識している。そういう感覚を持っている俺からすれば、父親の日本人は認知はおろか堕ろせと言っているわけで、金銭的な援助はまず望めない。つまり産んでもなんのメリットもないわけだ。でも彼女は「もったいないから」と答えた。折角授かった命を失うのは勿体ない。ごもっともだ。俺はそれ以上なにも聞くことが出来なかった。その言葉に全てが詰まっている。
 
現在上の子は6歳。下の子は5歳。今じゃすっかり俺にもなついている。ただ難点なのが言葉がほとんど通じないという点だ。俺は英語は日常会話程度ならばできるけれどタガログ語はからきしだ。フィリピン人は英語ができると言っても、5,6歳じゃ殆ど喋れない。俺がタガログ語を勉強すればいいんだろうけど、ここは気長に彼らが英語やタガログ語を覚えるのを待ちたいと思う。まあそんなことはどうでもよくて、何が言いたいかというと、自分が払う犠牲というものの価値を最小化できる人間を俺は美しいと感じる。だから俺は彼女を人間として美しいと感じている。
飯を食うときは立膝をついて手で喰うのが一番うまいと豪語し、1人でテキーラ1本を軽く飲み干すような女傑だけど、一人の女性として、母親として、弟や妹達を養ってきた家族の長として、言葉では言い表せない野性的な美しさを感じている。
 
そして俺もそういう人間でありたいと思っている。でもきっとムリだろう。俺はもうずっぽり日本人なのでやはりどこかで損得勘定がはたらいてしまう。それ故国を選ばずはたらくことができているのだろうけど。だから俺は彼女のような人間を出来る限りサポートしたいと思っている。美しい人間を少しでも手助けすることで自分にもその美しさが少しは混ざってくるんじゃないか、そんな風に都合よく考えている。だから頭じゃイケダハヤトさんやはあちゅうさんが述べる意見に違和感を感じられるのだけど、感情的な部分で否定することが出来ない。彼らがあのような感情を覚える心情は凄く良くわかる。だからこそ同時にこうも考える。そういう犠牲を払って生きることの美しさに目を向ければ辛さは消えると。