地獄戦記

地獄から無事に生きて戻ってこれた。世の中では炎上案件なんてものがあり、そんなもんに相対するような状況をデスマーチなどという。俺が味わったものはそんなエレクトリカルなふわっとしたもんじゃない。正真正銘の地獄だ。気力か体力が底をついたやつから倒れていくし、倒れたら仕事に穴があく、穴があいたら責任問題に発展する。だから倒れるときは社会的に死ぬときでもある。冗談じゃない。たかが仕事で死ぬなんて。

しかしこの数ヶ月毎日朝から深夜まで土日もなくはたらきつづけ、気力体力に自信のあった俺だけど、さすがにそろそろ心が折れるとくじけかけたそのとき、とんでもない問題が浮上した。詳しいことは書けないけれど、その瞬間俺が心を折ることのできる余地はなくなった。心を折ってる暇があったら仕事を進めなければならない。厳しい挑戦ほど計画通りに物事を進める構えが必要だ。周りを顧みることが指示書に含まれていないのならば顧みることはできない。その一瞬のよそ見が死を招きかねないからだ。

そしてついに俺は一瞬たりともよそ見をすることなく最終コーナーを曲がった。隣を走る奴のあえぐ声が聴こえる。俺はまだ一人じゃないと気づく。同時にこれが現実だということにも気付かされる。マラソンのようなものだ。同じように苦しむやつらと助け合うことは決してできないが、同じように苦しむやつがいると感じることが自分との戦いを助ける。しかしある瞬間声が聴こえなくなった。最も近い位置で同じように走っていた奴が倒れたのだ。

ついに俺だけになった。いや、厳密にはもう一人いたが、そいつが元凶みたいなもんだから、俺とラスボスだけになった格好か。いずれにせよ、ゴングは鳴った。TKO だ。勝者はいない。最後まで立っていられたやつだけが死なずにすんだだけだ。地獄の炎の向こうに元請けが立っていた。俺たちを投げ込んだのが地獄だとは思っていなかったと言った。嘘か本当かはどうでもいい。地獄から生きて戻った俺をケアしてくれている、その行動だけが真実だ。生き延びることができた今、こうやって記録を残すことにどのような意義があるのかはわからないが、何かを書いておかないとダメな気がした。俺が喘ぎつつも歩みを進めてきたこの数ヶ月、振り返れば死屍累々、未だ地獄の釜の口は開いたままだ。

俺は与えられた責務を果たした上でなんとか死なずに済んだ。多くは責務とともに地獄の奥深くに落ちたか、責務を投げて失踪した。俺は退役軍人のようなものだ。あとはトラウマとなるような話を人に聞かせるだけだが、詳しく語ることはできない。これは俺だけがわかる備忘録のようなものだ。忘れたくとも忘れられはしないが。

 

「ちゃんと進んでいる」

と毎日報告してきていたやつが、実際には俺達がどこに向かっているかを殆ど知らなかったが故に、今思えばそいつの「進んでいる」という言葉は現実には全くそぐわない解釈だった。引き返すことが難しいところまで進んだ辺りで、そいつが何も知らないことが明らかになり、愕然とした。あの瞬間のなんとも言えぬ絶望感は今でも体にこびりついているような気がする。

嘆いても何も変わりはしないし、嘆くような余裕もない。9割の確率で死ぬのが9割5分に変わったようなものだ。今更驚くようなことでもない。そう自分を言い聞かせてスケジュールを引き直し始めたけど、すでに気力も体力も限界までつかっていて、これ以上稼働時間を増やすことはできなかった。すでに1日20時間働くのが普通になってしまっていた。これ以上はいくらなんでも現実的ではない。とりあえず目の前に溜まったタスクを片付けることを優先し、同時に後回しにできそうなタスクの洗い出しに入った。

気づかないふりをしてその場をしのげるようなものを探した。怒られるだけで済むならば、怒られている間は時間が稼げる。その解釈がすでにおかしかったのだが、その場では気づくことができなかった。地獄にいると人の精神は変容する。通常では絶対に解決策とは考えないようなことを解決への妙案として受け取ってしまったりする。

とにかく、俺達はなんとか怒られるだけですみそうなタスクを無視して、進んでると言いながら何一つ進んでいなかったやつのタスクを拾い始めた。しかし、そいつの作った全ては呪詛で出来ているのではないかと考えざるをえないほどに不具合が多く、無駄に複雑で読むことすら難しい状態にあり、よもやここまでかと、そいつを助けることは諦めた。仕方なかった。極限状態ではそのようなことも正当化される。実際、そいつを助けるにはまずそいつ自身を殺してそいつの手が動かなくなるようにしなければならない。そいつの生み出す呪詛によってそいつ自身が死に至ろうとしている中、一刻は助けることも検討したけれど、そいつの体にまとう呪詛を払う先からそいつが生み出す呪詛にそいつ自身が包まれていっているのを目の当たりにして、手が止まったことを今でも覚えている。自分の毒に犯される蛇を助ける方法はない。

他にも倒れかけているやつはいたし、そういうやつならば助ければ生き延びられることはわかっていた。確実に助けられる方を選び、助けた。そうしている間にも呪詛はどんどんを色を濃くし、とうとう中で何が起きているのか誰からも見えなくなった。もちろん、呪詛を吐いた本人にも見えていない。そんな中でも、薄っぺらい笑顔で「ナントカオワラセル」と吐き出すそいつに、もはや嫌悪すら覚えなくなっていた。とにかく、誰かにこの地獄を終わらせてほしいと思っていた。地獄が終わるのが先か、俺が死ぬのが先か。俺には家族がいるので死ぬことはできない。家族と暖かな時間を過ごすことだけを夢想して心の全てを埋め、夢想したこと全てを心から取り出すと、心はからっぽになる。そうやって仕事をすることで心への被害は最小限になる。目の前に山と積まれたタスクをこなすマシーンになっていた。

山場を迎えた数日後、この地獄が永遠に続くことを半ば受け入れ始めていたある日、ある人が救いの手を差し伸べてくれた。真実という鏡で地獄の奥底に蠢く俺らを光で照らしてくれた。そうして初めて俺たちが地獄にいることが人の知るところとなった。

あとは冒頭で述べたとおり、俺は俺がやるべきことをやっていたという至極当たり前の事実によって地獄の門を生きて再びくぐることができたわけだ。
くぐることができなかったやつもいたし、くぐる前に志半ばで力尽きてしまったやつもいる。一つだけ言えることは、人の生というものは本質的に耐えることにあるという点だ。耐えることで人は成長もできるし、こうやって死の淵から生き延びることができる。どのような方法を使ってでも耐えることが人間の生にとっては正しいことなのだ。

死んだほうがマシだと思っても、死によって生が得られることはない。死がもたらす平安は自己の受容体としての終わりを示している。死によって何かが始まることはない。単に全てが終わるだけだ。俺は家族を残して死ぬわけには行かなかった。家族を残して自分の生を終わらせることはできなかった。俺が生き延びることができた理由はたったひとつ、家族がいたからだ。しばらくは家族を大切にして生きたいと思った。

地獄の釜はまだ真っ赤な舌を出している。俺はまだ舌が届く範囲にいる。
俺はそのような場所でしか金を稼げないからだ。だからこれからも地獄に落ちることがあるのだと思う。そのたびに、もがいて、あがいて、家族を想って生き延びたい。