ランニング

 年明けてからランニングを再開している。大体2,3日に1回。1時間くらいかけて7.5kmほど。以前も走っていたんだけど膝が痛くなって休止してるうちにいつの間にか走らないようになっていた。

今回はちょっとアプローチをかえて走ってる最中は鼻だけで呼吸をするようにしている。鼻は口よりも呼吸できる量が少ないので、必然的にペースが抑え気味になるし一定のペースを保ちやすい。呼吸が苦しくなってきたら少しペースを落とせばいい。

口で呼吸しているときもペースを落とせばいいんだけど、口で呼吸してる状態で苦しくなるともう余裕がないというか、歩くようにしないと呼吸を整え直せないような状態なのでコントロールが非常に難しかった記憶がある。

こう書くと口で呼吸してる方がずっと速いように見えるけど、実際にラップを見てるとどっちもほとんど変わらない。鼻で呼吸してるパターンだとスピードに乗るまで多少時間がかかるけど、スピードに乗った時の平均は口で呼吸しているときよりも若干良いくらい。

呼吸が苦しくないということは姿勢にも負担がかからないようで、今のところ膝が痛くなるようなことはないし、口で呼吸して走ってる時よりも長時間、長距離走れている。

走って体を疲れさせると睡眠の質が向上するような感覚があるし、走ってる間はある種瞑想のような状態になるので、膝などを痛めないよう無理せず続けていきたい。

とりあえず1ヶ月間で75km完走することを目標に。

希望的スローガンとしての脳内麻薬ガンガン

全然やる気が出ない。毎日普通に無目的にはたらいているだけだ。これではうつになってしまう。何か仕事上に目的をつくらないと。環境を変えてみようと思い立ってホテルに滞在してみているけどダメだ。いや、まだわからない。まだ昨日だけだし、今日はきっといける。夜ホテルに戻ったら仕事をしよう。仕事が終わったらゼロをイチにするってテーマの本を読んでものを作る人間の情熱に触発されよう。この程度で満たされたと思って停滞してしまうのはこわい。1年もしたら廃人だ。

日本で毎日通勤電車に揺られて固定的な収入を得て、週末はプライベートを満喫。みたいな生き方は俺には無理だ。気が気じゃない。そんな環境に自分を最適化してどうする。俺は自分の人生をそういう誰でもいいような役割を演じることに浪費したくはない。100万人に一人が、1億人に一人が経験できる特別なことを経験したいし、脳内麻薬もガンガン出てほしい。出そう。

集団でことにあたる姿勢について

俺の仕事環境はこれまで「専門分野を持つ個人かそれに近い小規模な組織が集まり、個々の受託案件にフィットした集団を構成し、各人がそれぞれの得意分野にコミットして納品する」というアプローチをとっていたんだけど、今回の件で「口がうまいけど何一つできないやつ」が紛れ込むリスクについて学んだ。学んだというか、もうこの方法に懲りたと言ってもいい。

フリーでやってる人間なんて、誤解を恐れずに言えば半分以上はそうせざるを得ないような連中で、さらにその半分はパフォーマンス的な問題で一般の企業には務められないような連中なのだけど、そういう連中に限って見せるのがうまいもんだから成果物を見るまではわかんなかったりする。なので練習試合みたいな小規模案件で成果物だとか仕事のやり方みたいなものを見てから大丈夫かどうかを判断する必要がある。

そんなことはこの10年ウェブ開発の受託制作をやってきた経験によって痛いほどわかってたんだけど、今回は俺に直接的な決定権があるわけじゃなかったという点と、気づいた時にはもうそうせざるを得ない状況だったという点が致命的。あの時点で運ゲーになってしまった。そしてくじ引きに負けた。離陸の瞬間に胴体着陸させなければならないことが確定するようなもの。

今回痛感したのは、事前にパフォーマンスを測る機会を得られないままに大規模案件に投入せざるを得ない状況が発生しうるということと、それによって被る被害も避けられない(責任をとらなければならない)ということ。一回の技術者にはリスクがでかすぎる。イベント発生の条件が成立すると避けられないというのは、もうそのイベントが発生する条件を成立させない選択をとっていくしか無いんだけど、それってつまり「対応可能であることが担保できる状況」なわけで、今のアプローチは集団と言えど資本的な関係は無いので手のひらを返されても文句は言えない。

つまり、結局は最悪自分が対応できる範囲のことしか請けないという、これまでと同じ選択になるという。一人で10年近くやってきて「これからのはたらきかた」みたいなもんを真剣に考えて模索してきたつもりだったけど、結局は「どうはたらくか」じゃなくて「誰とはたらくか」なんだってことを再認識した。

「会社員なんてのは会社に守られて責任感も欠如してる」なんて昔は思ったこともあったけど、実際はそうじゃない。平均すれば会社に勤める人の方が仕事に対する責任感が強い。これは組織の中での評価だとか色々な要因はあるだろうけど、やっぱり集団の中で個としてパフォーマンスを出していくって考えた場合に重要なのは職責をきっちり果たすことに尽きるから、会社組織の中でまじめにやってる人は職責を果たすことをきちんと意識してる。

逆に個人でやっててダメなパターンだと、口八丁手八丁で自ら負うべき職責をあたかも自分には関係の無いことのように主張するようになる。これが今回最悪だなと思ったパターン。明らかに能力が足りてないと思ったから好意でサポートしたのに、ちょっとでも手をだすと次からは「そこは○○さんにやってもらったとこなので、以降は○○さんに依頼してください」とかしれっと言い出してくる。俺はあくまでもお前に対して好意でサポートしてるだけなんだから、お前が受け入れから何から責任もって対応して自分の成果物として管理しろやクソがって喉元まで出かかったけど、ニッコリ笑って「了解でーす」と受け入れるしかない。そこで拒否してもちゃんと責任もって対応しないだけだし。

結局、責任放棄の機会を与えたことが根本的な原因だと思ったので後半は「ここはサポートするけど事後は自分の成果物として責任持って対応してください」と毎回付け加えるようにした。俺の中では仕事仲間っつーのは背中を預けて戦う仲間なわけで、いちいち責任範囲がどうたらって言いたくはないし、そんなことを言わないとダメな連中に背中預けるなんてそもそも無理。ということで俺がイメージしてた「個人が力を合わせてでかい仕事をする」ってのは相当難しいことがわかった。少なくともちゃんとやれる仲間をもっと見つけないとダメだと思った。

その点で言えば、今回は相当ヤバイ連中が集まってしまったけど、全員がそういうわけではなく、ちゃんとやってくれる人もいた。まさしく僥倖。後はリスクヘッジの仕方だけもっとしっかり練っておかないと、今回は俺自身が責任を問われるような動き方をしていなかったから責任を問われるようなことはないんだけど、立ち位置に起因して責任が問われかねないということも理解した。俺の場合はそもそもとしてそういう位置に立たなければならない理由もないから立つつもりはないけど、うっかり欲をかけばそういうリスクも受け入れることになるので注意していきたい。

地獄戦記

地獄から無事に生きて戻ってこれた。世の中では炎上案件なんてものがあり、そんなもんに相対するような状況をデスマーチなどという。俺が味わったものはそんなエレクトリカルなふわっとしたもんじゃない。正真正銘の地獄だ。気力か体力が底をついたやつから倒れていくし、倒れたら仕事に穴があく、穴があいたら責任問題に発展する。だから倒れるときは社会的に死ぬときでもある。冗談じゃない。たかが仕事で死ぬなんて。

しかしこの数ヶ月毎日朝から深夜まで土日もなくはたらきつづけ、気力体力に自信のあった俺だけど、さすがにそろそろ心が折れるとくじけかけたそのとき、とんでもない問題が浮上した。詳しいことは書けないけれど、その瞬間俺が心を折ることのできる余地はなくなった。心を折ってる暇があったら仕事を進めなければならない。厳しい挑戦ほど計画通りに物事を進める構えが必要だ。周りを顧みることが指示書に含まれていないのならば顧みることはできない。その一瞬のよそ見が死を招きかねないからだ。

そしてついに俺は一瞬たりともよそ見をすることなく最終コーナーを曲がった。隣を走る奴のあえぐ声が聴こえる。俺はまだ一人じゃないと気づく。同時にこれが現実だということにも気付かされる。マラソンのようなものだ。同じように苦しむやつらと助け合うことは決してできないが、同じように苦しむやつがいると感じることが自分との戦いを助ける。しかしある瞬間声が聴こえなくなった。最も近い位置で同じように走っていた奴が倒れたのだ。

ついに俺だけになった。いや、厳密にはもう一人いたが、そいつが元凶みたいなもんだから、俺とラスボスだけになった格好か。いずれにせよ、ゴングは鳴った。TKO だ。勝者はいない。最後まで立っていられたやつだけが死なずにすんだだけだ。地獄の炎の向こうに元請けが立っていた。俺たちを投げ込んだのが地獄だとは思っていなかったと言った。嘘か本当かはどうでもいい。地獄から生きて戻った俺をケアしてくれている、その行動だけが真実だ。生き延びることができた今、こうやって記録を残すことにどのような意義があるのかはわからないが、何かを書いておかないとダメな気がした。俺が喘ぎつつも歩みを進めてきたこの数ヶ月、振り返れば死屍累々、未だ地獄の釜の口は開いたままだ。

俺は与えられた責務を果たした上でなんとか死なずに済んだ。多くは責務とともに地獄の奥深くに落ちたか、責務を投げて失踪した。俺は退役軍人のようなものだ。あとはトラウマとなるような話を人に聞かせるだけだが、詳しく語ることはできない。これは俺だけがわかる備忘録のようなものだ。忘れたくとも忘れられはしないが。

 

「ちゃんと進んでいる」

と毎日報告してきていたやつが、実際には俺達がどこに向かっているかを殆ど知らなかったが故に、今思えばそいつの「進んでいる」という言葉は現実には全くそぐわない解釈だった。引き返すことが難しいところまで進んだ辺りで、そいつが何も知らないことが明らかになり、愕然とした。あの瞬間のなんとも言えぬ絶望感は今でも体にこびりついているような気がする。

嘆いても何も変わりはしないし、嘆くような余裕もない。9割の確率で死ぬのが9割5分に変わったようなものだ。今更驚くようなことでもない。そう自分を言い聞かせてスケジュールを引き直し始めたけど、すでに気力も体力も限界までつかっていて、これ以上稼働時間を増やすことはできなかった。すでに1日20時間働くのが普通になってしまっていた。これ以上はいくらなんでも現実的ではない。とりあえず目の前に溜まったタスクを片付けることを優先し、同時に後回しにできそうなタスクの洗い出しに入った。

気づかないふりをしてその場をしのげるようなものを探した。怒られるだけで済むならば、怒られている間は時間が稼げる。その解釈がすでにおかしかったのだが、その場では気づくことができなかった。地獄にいると人の精神は変容する。通常では絶対に解決策とは考えないようなことを解決への妙案として受け取ってしまったりする。

とにかく、俺達はなんとか怒られるだけですみそうなタスクを無視して、進んでると言いながら何一つ進んでいなかったやつのタスクを拾い始めた。しかし、そいつの作った全ては呪詛で出来ているのではないかと考えざるをえないほどに不具合が多く、無駄に複雑で読むことすら難しい状態にあり、よもやここまでかと、そいつを助けることは諦めた。仕方なかった。極限状態ではそのようなことも正当化される。実際、そいつを助けるにはまずそいつ自身を殺してそいつの手が動かなくなるようにしなければならない。そいつの生み出す呪詛によってそいつ自身が死に至ろうとしている中、一刻は助けることも検討したけれど、そいつの体にまとう呪詛を払う先からそいつが生み出す呪詛にそいつ自身が包まれていっているのを目の当たりにして、手が止まったことを今でも覚えている。自分の毒に犯される蛇を助ける方法はない。

他にも倒れかけているやつはいたし、そういうやつならば助ければ生き延びられることはわかっていた。確実に助けられる方を選び、助けた。そうしている間にも呪詛はどんどんを色を濃くし、とうとう中で何が起きているのか誰からも見えなくなった。もちろん、呪詛を吐いた本人にも見えていない。そんな中でも、薄っぺらい笑顔で「ナントカオワラセル」と吐き出すそいつに、もはや嫌悪すら覚えなくなっていた。とにかく、誰かにこの地獄を終わらせてほしいと思っていた。地獄が終わるのが先か、俺が死ぬのが先か。俺には家族がいるので死ぬことはできない。家族と暖かな時間を過ごすことだけを夢想して心の全てを埋め、夢想したこと全てを心から取り出すと、心はからっぽになる。そうやって仕事をすることで心への被害は最小限になる。目の前に山と積まれたタスクをこなすマシーンになっていた。

山場を迎えた数日後、この地獄が永遠に続くことを半ば受け入れ始めていたある日、ある人が救いの手を差し伸べてくれた。真実という鏡で地獄の奥底に蠢く俺らを光で照らしてくれた。そうして初めて俺たちが地獄にいることが人の知るところとなった。

あとは冒頭で述べたとおり、俺は俺がやるべきことをやっていたという至極当たり前の事実によって地獄の門を生きて再びくぐることができたわけだ。
くぐることができなかったやつもいたし、くぐる前に志半ばで力尽きてしまったやつもいる。一つだけ言えることは、人の生というものは本質的に耐えることにあるという点だ。耐えることで人は成長もできるし、こうやって死の淵から生き延びることができる。どのような方法を使ってでも耐えることが人間の生にとっては正しいことなのだ。

死んだほうがマシだと思っても、死によって生が得られることはない。死がもたらす平安は自己の受容体としての終わりを示している。死によって何かが始まることはない。単に全てが終わるだけだ。俺は家族を残して死ぬわけには行かなかった。家族を残して自分の生を終わらせることはできなかった。俺が生き延びることができた理由はたったひとつ、家族がいたからだ。しばらくは家族を大切にして生きたいと思った。

地獄の釜はまだ真っ赤な舌を出している。俺はまだ舌が届く範囲にいる。
俺はそのような場所でしか金を稼げないからだ。だからこれからも地獄に落ちることがあるのだと思う。そのたびに、もがいて、あがいて、家族を想って生き延びたい。

不特定多数の人間による匿名的恐喝によってオリンピックのロゴが取り下げられた件に付随して発生しつつある問題へのいらだち

オリンピックの件で「パクリとはなんぞや」という根源的な問いが世間を賑わせているが、どいつもこいつも「これがパクリだ」と見つけることにやっきになっている。

いわさきちひろのタッチをパクったと言われる学生の作品に言及した記事がバズり、やれひどいだのなんだのと批判されまくっている。馬鹿ばっかりだ。

デザインてのは何かの再現だ。生まれてからこれまでに見て感じて、経験してきたことの積み重ねをフィルタとして対象を再構成しているに過ぎない。ドラゴンボールしか読んだことのないやつに「漫画とはなんだ」と聞いたらまず間違いなく悟空の絵を描くだろう。それがデザインのメカニズムだ

色々なものの一部をパクリ組み合わせたものを「作品」と呼び、世に出す権利はある。それに対して「これは俺をパクっているからやめろ」という権利もある。
しかし、何の関係もないやつが「これはあいつをパクっているから作品の出展を取り下げろ」という権利はどこにもない。

田中圭一という人がいる。この人は漫画界の巨匠と言われる様々な人のタッチをパクってエロ漫画を描くという、非常にゲスい作風で一部に人気がある。もちろん俺も好きだ。

察しの良い人ならばわかるだろうが、冒頭の学生の作品と田中圭一氏の作品のアプローチは同じだ。表面的なタッチをあえて似せることに意義を見出している。似せることでどのような意図を伝えたいのかを代弁するような野暮なことはやらないけど、少なくともパクることが作品の一部として含まれている。

全く同じ両者のアプローチで、何故ここまで周囲の反応が違うのだろうか。これは、ひとえに学生の作品がバカに見つかったということなのだと俺は考えている。ここで言うバカとは、認められない自分を見つめず、受け入れない社会に原因があると考えるバカを指している。そういう奴は権威を否定する隙を常に伺っている。

オリンピックの件でパクリ以上に根深そうな問題としてあるのが「出来レースだったのではないか」という疑惑で、バカどもはここぞとばかりにオリンピックロゴの選考委員会に対して「パクリなのにわかってて採用したんだろう、お前らの息のかかったやつを選んだんだろう」と、憶測で批判している。これは、本質的に言ってパクることや不正に対しての糾弾ではなく、権威を批判することで逆説的に自分が認められない現実が間違ったものであると示したいだけだ。

「俺は毎日頑張っているのに誰にも目をかけてもらえず、世にでることもできない。それなのにあいつは人のものパクってるくせに権威側の人間になっている」という、単なる妬みによるものだ。

俺はそれをダメだとは思わない。バカな奴らはそうやって妬んで悪口をいうことで満足できるからだ。そういうやつは「オリンピックのロゴを作ったやつは人の作品をパクってるからクソだ」と口にすることで心にある仄暗い嫉妬を射精するがごとく発散できるから、ある意味で健康的だ。

しかし、インターネットによってバカが権力を得ることができるようになってしまった。この権力にはなんの背景もなく、単に不特定多数のバカが自分の置かれている立場よりも恵まれていると勝手に判断した他人を貶める行為を「他の連中も同じように言っている」という謎の論理で正当化することで生まれている。本来認められるべき自分が権威に収まっている一部の人間によって不当に貶められていると考えるバカどもが、インターネット上に生まれたこの新しい権力に、誘蛾灯に集まる蛾の如く集まっている。

日本人は自省的であることが美徳とされている。人に迷惑をかけていると考えられる者が善で、そうではない者は悪とされる。それ故、本来何の権利も持たないはずのバカが「俺には迷惑がかかっている」という被害妄想を盾に他人を悪と認定する。
少子化の根本的な原因はここにあると俺は思っているが、それはさておき、インターネットで生まれた「多数のバカによる被害妄想を基礎としたクレーム集団」という、流れの滞った下水の上澄みのように腐ったバカどもが、己の自己満足のためにこれはパクリじゃないか、あれはパクリじゃないかと草の根を分けてデザイナーの過去の作品を探している状況はまだ暫く続くのだろうと思う。

日本の世の中は自己犠牲的で盲目的に従順な人間であることが市井の人の価値とされてきた。民族性でもあるし、敗戦によるものでもあるのだろう。しかし、そういう価値観を「俺はそうなんだけど、お前はどうなんだ」と人に押し付けることで我慢比べのようなことをやり続けることには何の価値もないと俺は思う。耐え難きを耐えることが美徳だと思うならば自分一人でやれ。他人にそれを押し付けるんじゃない。少なくとも、なんの権利も持たない奴が「あれはパクリだ、パクったやつは死ね」と、当事者の気が狂うまで攻撃するのは間違いだ。パクられたと思うやつだけが「それは俺のパクリだからやめろ」と言う権利を持っている。それ以外は全て単純な恐喝に過ぎない。クソが。

オリンピックロゴが取下げられた件に関しての私感

オリンピックロゴの件、

http://www.mr-design.jp/

マジ終わってる。インターネットが普及して距離に関係なく同調できるようになった結果がこれだとすると、日本人は情報化社会では生きられない民族だと思いますよマジで。

この人の成果物がどのようなものであるかを評価し、その正当性を担保するのは審査委員会の責務であってなんの関係もない第三者じゃないわけで、今回の件で「パクリ野郎が!」みたいに義憤に駆られてネットでわーわー騒いでやれピンタレストにアカウントがあったからあいつはあの元絵を知っていただとか、犯罪を暴くかのように話題にしてるけど、あんなもん適当なメールアドレスで登録してるページに表示されるメールアドレス書き換えてスクリーンショット撮れば誰だってつくれるし、アレを「なんの関係もない第三者である自分が批判する権利を有する証拠」として扱って弾劾するのとか、ほんともうヤバイですよ。

まあでも何が一番ヤバイって、こういうなんの正当性もない暴力によって当人が作品の取り下げを望まざるを得なくなったという点で、これは何をどう言い繕うと恐喝です。

こんなの権力が取り締まれるようなもんじゃなくて個人が自分の姿を顧みて自制すべき話なわけで、これを自制せずに「世の中ではあいつは悪いやつだと定義されているから貶めても問題ない」みたいな謎の論理によって自己の暴力性を正当化するなんてのはもってのほかなわけですよ。

日本人の自制的なところは美徳だけど、それを他人に求める時点で己の自制心失ってるって、もっとちゃんと認識した方がいいと思います。この件で攻める側に同調した人は特に。